ただの自分語り

投稿日:2021年6月15日 更新日:2024年1月16日

1989年9月2日生まれ 福島県田村市都路出身

平成元年 1989年 0歳

平成2年 1990年 0歳1歳

平成3年 1991年 1歳 2歳

平成4年 1992年 2歳 3歳

平成5年 1993年 3歳 4歳

平成6年 1994年 4歳 5歳 
 岩井沢小学校に一緒にある。
 岩井沢幼稚園。
 ここだと、小学校と一緒だから、小学生が幼稚園に来たりもする。
 まー行事の時くらいだけどね。 
 なぜか、幼稚園でトランポリンで遊んでいる記憶だけがある。 

平成7年 1995年 5歳 6歳

平成8年 1996年 6歳 7歳
 岩井沢小学校 学年16人。
 小さな学校。

平成9年 1997年 7歳 8歳 
 小学校で覚えているのは、ネガティブなことだけど、 家ではいつも一人ぼっちだった記憶。
 3人兄弟の末っ子で、上は5つ上の兄、 4つ上の姉がいる。
 小学校に行くときに途中まで中学校に行く道でもあるけど、なぜか、50m後ろをとことこ一人で、上の2人は一緒に歩いていた記憶がある。
 家ではさ、上2人の年子だから、学校の話、中学校の話とメインで話しているから、自分だけ、話ができない。
 ついていけない。 
 一人ぼっちの記憶があるなー。
 ただね、このおかげで、強い承認欲求が生まれたよね。
 認めてもらいたいって。見てほしいって。
 クラスでは面白い人?(なっていたかな?)勉強も運動もすごい出来たわけではないけど、幼少期の NARUTO みたいな感じ。
 バカやっていたイメージだけど、まーこれは自分目線だから、周りからは違うように見えていたかも。

平成10年 1998年 8歳 9歳 小学3年生

平成11年 1999年 9歳 10歳 小学4年生
 小学4年生あたりかた始まる、スポーツ少年団。
 スポーツ少年団は普通は希望せいなのかな?
 当時は当たり前のように、男子はソフトボール、女子はバレーボールをやっていた。
 これは、人数が少ないからね。
 大きい学校ならバスケやサッカーがあったのかな?
 ただ、このソフトボールをやってたおかげ?で高校野球をやるようになったんだけどね。
 せっかくだから今話すと、中学校も、エスカレーター式だから学年は16人。
 で、今度は部活は2つに増えた。
 卓球部と野球部。
 絶妙な雰囲気の元、運動ができれば、野球部、運動ができない、または卓球が好きな人は卓球部に行くようになる。
 地味に運動ができる自分は野球部。
 これも高校野球を始める理由になる。
 そしてまた今話すと、高校で学年300人くらい? 40人の7クラスかな? 部活は何でもある。
 すげー。
 陸上に、サッカーに、バスケに、何する!? 部活は入りたいな! 何する!? 今まで何やってきた? ソフトに軟式野球。
 じゃー硬式野球をやりましょう。ってなった。 

平成12年 2000年 10歳11歳 小学5年生
 都路には、日本標準時計というのがある。
 ちょうど自分が小学校に行くときに、どでかい時計が設置してある。
 日本標準時計は、電波時計が日本で2ヵ所電波を出しているところがある。
 その1か所が都路にあるみたい。
 写真で見たことあるけど、実物は見たことはない。
 だから日本標準時計という、100万年に1秒しか狂わない時計が設置してある。
 ん-これは、札幌の時計台に33-4で負けるレベルで見る価値があるようだ。 
 2000年の時に、日本標準時計にテレビカメラが来て、お祭りのようにしていたのを覚えている。
 カウントダウンして。
 2000年~ やったー みたいな。 

平成13年 2001年 11歳12歳
 都路第二中学校

平成14年 2002年 12歳13歳

平成15年 2003年 13歳14歳 
 中学3年生の時に、都路第1中学校と都路第2中学校が合併して、都路中学校になった。
 だから、都路中学校の1期生である。誰にも言っても伝わらない、中学校の1期生の卒業である。

平成16年 2004年 14歳15歳 高校1年生

 福島県立田村高等学校 高校野球をやる。
 絶妙にうまくない。 

平成17年 2005年 15歳16歳 高校2年生

  野球のグローブ盗まれた事件。
 ちょうど、3年生が引退した後の話かな。
 秋ごろかな。3年生からグローブをもらったから、2年生であっているかな。

 そんな時、当時公式のグローブなんて、まー親もいい意味で自分の部活に興味を出さないし、(高校の卒業式にも来なかったからなー)安いグローブを使っていた。
 グローブは種類があって、わかりやすいのは、ファーストミット、キャッチャーミットはでかいよね。
 そんな感じで内野のグローブ、外野のグローブってあるんだよね。
 そして、1年生なんてどこを守るかわからないから、どこでも守れるような、グローブも売っている。
 そして安いのがある。
 そんな安いどこでも守れるグローブを使っていたけど、1年ほどで、破損してきた。
 グローブが破れてきたのだ。

 んー新しいの買わないとなー。
 高校になってお年玉かな? 親にも買ってもらった? どっちだったかな? 新しいのを親が買ってくれるか?って後で話があったから、最初は自分で買ったはずだな。

 3万円の黄色の外野のグローブ。
 グローブって高いと高いのね。
 オーダーメイドとかあって、5万とか10万とかあったような気がする。
 そんなのは買えないから、オーダーメイドではない、でも派手な奴がいいなーと黄色のグローブ。
 でも手を入れるところが黒。
 かっこよかったなー。
 気に入ったから買ったんだけどね。

 グローブって最初はガチガチに硬いんだよね。
 スポーツ用品店に行けばわかるけど、ボールなんて取れないほど、硬い。
 そして、形ができてない。
 だから、買ったら、形をつくるとこから始まる。
 野球ボールのポケットを作るっていうんだけど。
 ボールをグローブに入れて、バンドで縛る。
 ぐるぐるに縛る。
 そうしてまずは形を作るんだよね。

 だから、買った当初は、部室に縛っておいておくんだよね。
 珍しく、連休で部活が休みだった後に、部室に行ったら、グローブがないわけよ。
 3万円の自分で買ったグローブがないわけよ。
 結局盗まれたわけでね。
 部室のセキュリティなんてないようなもんだし、鍵なんてないし、他にも靴がないっていう人もベルトがないっていう人も、同じようにグローブがないっていう人もいた。

 まー地元の人がどうのこうの、話があったけど、当時は警察どうのこうのなかったな。
 自分も泣き寝入りに近い状態だった。
 そんなときに、仲の良かった3年生の先輩からグローブをもらった。
 きれいな形。
 でもひもが切れかかっていたから自分で修理に出した。

 高校野球ではプロ野球のように、グローブの色が自由ではなくて、使えない色もあるんだよね。
 今もそうなのかな?
 例えば、青とか、赤とか、真っ赤はダメだけど、赤に近い茶色は平気だとか、あったはずだな。
 先輩からもらったグローブの黒。
 ひもは何色にしようかなーって、茶色にした。
 黒のグローブに、茶色のひも。
 ちょーかっこいい。
 まー自分で気に入ったからその色にしたんだけどね。
 よく後輩から「かっこいいすね」って言われた思い出。
 これがグローブが盗まれた事件。

 高校2年生の秋に、大きなけがをした。
 右大腿部全面の肉離れである。
 なぜ肉離れをしたのかというと、秋の少し寒い日に秋田で練習試合をしていた。
 私の野球は絶妙にうまくない。
 そして猛烈に下手でもない。
 野球の練習試合ではだいたい2試合行う。
 1試合目はレギュラー、1軍選手達が試合を行う。
 2試合目は2軍かな?
 背番号の10番台の人たちが行う。
 そして自分は、2試合目に試合に出るのが多い、打順は2番か8番くらい。
 まーバントを頑張る人とか、 守備がうまい人とか そんな感じの立ち位置だった。

 そして、話を戻すと、秋田での練習試合の1試合目の途中。
 自分は2試合目だと油断していたから、温かい格好してベンチに座っていた。
 その時、ピッチャーの打順で代打、俺。
 いきなり代打で出された。
 いつでも動けるように体を温めていたわけでもない状態で、打席に立つ。
 ランナーは1塁。
 サインを確認。
 代打であるから、いい意味で適当に打つのだろうか。
 サインは「バント」。
 まさかに代打でバントである。
 んー初めての経験ではあったけど、バントは得意ではある。
 お仕事である、バントを決める。
 一塁へ全力で走る。
 ここで体を十分に温めていない影響が出る。
 一塁へ走っている途中に右足に「ぶちっ」音が鳴る。
 その時はアドレナリンなのか、痛みを感じなく、一塁へ駆け抜けた。
 「セーフ」 バントをして、フィルダースチョイス(守備が間違って投げてセーフ)をしていたわけでもなく、絶妙なバントでセーフになったのである。
 しかし、足は心配である。
 正直アウトがよかった。
 そして、ランナーとしての仕事をこなしていたら、ホームイン。
 ちゃんとダイヤモンドを駆け抜けてきた。
 えらい。
 ピッチャーの代打であるから、そのあとに、選手交換。
 まずはこの肉離れが第一ポイントになる。 

 肉離れを経験して、その時は病院もいかなかった。ましてや整骨院の経験なんて、小学校の低学年に、踵が痛くて、親に連れて行ってもらった、整骨院で・・・問題ないといわれて返された思い出しかない。
 確かに今の自分からその小学校の自分を見たときに、問題ないように歩くし、痛いときもあるのだろうけど、何か包帯でも巻いてくれ。
 あの時の自分が仮病を起こしているのかと思われてしまう。
 年齢が小さいほど、かっこいい処置をしてくれ。 

 肉離れがなーなーで治っていくうちに、体育祭が始まった。

 自分は足が速かった。

 ん-でも自慢できるほど早いわけではないんだろうなー。

 高校1年生の時の50メートル走が7秒4なのは覚えている。

 高校2年生の時に6秒4。

 高校3年生の時は10キロマラソンを走った後に6秒4だったなー、正式に走ったらもう少し早かったのかなーなんて思う。

 体育祭でもリレーに参加。

 最下位から2位まで順位を上げた思い出もあるけど、、、間違いないよな?

 自分語りだから、いいことしか言ってないわけではないよな?

 とりあえず、早かった思い出はある。

 そしてそんな体育祭にで2度目の肉離れ、長嶋茂雄が言うとミートグッパイ。

 2回目の肉離れは1回目に比にならない。

 とにかく足を前に出すことができない。

 ほんとに引きずるレベル。

 具体的に話すと、大腿四頭筋の肉離れをしてしまったから、 足を前に出せない。

 でも大腿四頭筋を使わなければ何とか足を前に出せる。

 右足を大きく外旋させて(つま先を大きく外に向けた状態)で内転筋を使って足を前に出して歩くのである。(極端に言うとカニさんの横歩き)

 当時は病院に行くなんて言うことも、整骨院に行くなんて言うことも頭にないもんだから、足を引きずりながら、練習をしていた。

 ただ、さすがに先生呼ばれて、病院に行ってこいって言われた。

 近くの病院はM藤整形外科。

 けがで病院に行くのは初めてに近いから、足を引きづりながら病院に行った。

 今でも覚えているなー。

 たくさん勉強して、たくさん経験すると、病院の先生はすごいことがわかるんだけど、

 当時は、診察して、

「これ痛いでしょ?」

「→ いいえ」

「→いてー!!」

「あっここが痛いんだね。肉離れだね」

「じゃーシップと包帯巻いとくね」

 って感じ。

 ん-行く意味あったのかなーって感想。 そんな時に、当時の友達Aさん。 「私は慈源堂東口整骨院に通っているよ」「あそこは夜の10時までやっているから、部活終わりに行けるよ」って話。 始めていくときは、友人と一緒に親の車で連れて行ってもらった。 部活おわりだら、8時前後。院につくのが9時ごろかな? だから、友人の親が夕食ということで 焼うどん を作ってくれて、車の中でタッパーに入っている焼うどんをだべながら移動した思い出。 到着。 当時の田村高校と、慈源堂東口整骨院と福島医療専門学校はつながりが強かった。 だから、田村高校の事すごく詳しかった。 東口整骨院にいたのは2人の先生。 S先生とO先生。 自分の体は2回の肉離れだから、立派な瘢痕組織ができている。(筋肉に硬い盛り上がり、収縮性がなく、再度けがをしやすい)それをなくすように伸ばしたり、テーピングを張ったり。なんでか、S先生のテーピングがかっこいいと感じて、こんな仕事もあるんだと思った記憶が今もある。 それまでは仕事なんて、デスクワークなんてやりたくないから、体を動かした仕事がいいなーくらいに思っていたし、専門学校なんて行こうと思っていなかった。 でもそれをきっかけに柔道整復師の仕事を知ったのだ。 ちなみに、優秀に通うわけではなくて、5回くらいでぶっちした。(後になって自分のカルテを確認)

平成18年 2006年 17歳18歳 高校3年生

平成19年 2007年 17歳 18歳 福島医療専門学校 

 入学すると、研修がある。

 研修は希望制だからね。

 だから研修する人もいれば研修しない人もいる。

 でも本業は学業でもあるから専門学校である以上国家資格を取ることが最優先事項でもやっぱり現場でね、勉強することも大事だから、研修は希望で行えるような状態でもあったんだよね。

 当時の自分なんて研修は行くのが当たり前だと思っていたから、すぐ研修先説明会に行っていろんな接骨院の場所の話を聞いたんだよね。

 ただ18歳の高校生終わったすぐの自分がその研修先の接骨院の話を聞いたところで右も左もわからないよね。

 だから漠然と研修しなきゃなぁーでもなぁーどこがいいんだろうなぁって言う感じでいたんだよ。

 そんな時に最初に話したところで田村高校と福島医療専門学校とあと東口整骨院がすごく関係がよかったんだよね。

 その関係の良さを説明する、とまず S先生 が田村高校出身なんだよね。

 そして福島医療専門学校にトレーナー研究会だったかな? があるだけどそのトレーナー研究会は(トレ研て言ってたから本名があいまい)田村高校の部活動に毎週日曜日行くんだよね。

 学生のケガを見せてもらって、トレ研学生がケガを見るから、主に大きな怪我じゃなくてほんとにテーピングに行くような感覚でね。 いかせてもらって、学生さんが怪我していなかったら1日中何もなく、近くにいて終りましたって言う感じでいってた。

 だからね、田村高校と福島医療専門学校って結構繋がってる人が多かったりしたんだよね。

 そして福島医療専門学校、これは聞いた話だから曖昧かもしれないんだけど福島医療専門学校ができた当時は研修してくれる接骨院なんてなかったから、でも学生さんを接骨院で学ばせる必要性もあるから、接骨院を作ろうと言うことで慈源堂ができたんだよね。

 だから福島に慈源堂って2つあって木野整骨院と東口整骨院があって自分が初めて整骨院に行ったのが慈源堂東口整骨院になるんだ。

 だから福島医療専門学校と慈源堂東口整骨院もまた密接に関係があるんだよね。

 でね、自分たちの仕事って柔道整復師って言う仕事だから柔道がもともと関係してくるんだよね

 だから柔道部の人が柔道整復師になるっていうのも、まぁよくある話でもあるんだ。

 だから当時のS先生もO先生も柔道部出身なの。

 そしてね、自分の入学当時、研修どっかでやらないといけないなぁと考えていた時に友人のSがいたの 

「一緒に研修しない?」って言われた。

 どこかで研修しなきゃいけないなぁって思ってた当時だからもう二つ返事で「いいよ」って言ってた思い出。

 その研修先っていうのが慈源堂だったのね。

 だから当時のSがいなかったら自分は慈源堂には研修してなかったんだろうなーって今も思う。

 ちなみに S の話をするんだけど 、えー研修1年目2年目かな2年目の時に院長先生が変わったんだよね。

 当時のS先生もO先生も1年の最後位にやめていったんだよね。

 で、その時に、、、無能って言っていいのかなぁー、自分が初めて「あぁ、もうこれ研修してて意味ないじゃん」って思った人がT先生だった。

 このT先生が2年目の4月位かな院長先生として入ってきたんだよね。

 まぁこの無能っていうのが何個かあって、それを3つ位説明すると、

 1つ目がまぁ30人ぐらいの患者さんは毎日来てたんだよね。

 その患者さんたちがあの1日10人位に減っちゃったんだよ。

 だからそのT先生が来てから来る患者さんがすごい減ったんだよね。

 でもう一つが自分を慈源堂に入れてくれたSの話。

 T先生の下で研修をしていたSが言い争いかなぁ?(Sはおとなし目のいじられキャラ)トラブルになって Sはその時にゴムゴムのガトリングを受けたっていう話をしてたんだけど、まぁボコボコに殴られて病院に行ったって言う話。

 ただボコボコに殴られて病院に行ったってSがその夜に電話してきたから、その次の日にSは学校に来たんだよね。

 で、顔見たときに何かボクシングの試合の後みたいになってんのかなと思ったら、案外普通の顔してたんだよね。

 まぁ勢いがゴムゴムのガトリングで、精神的にボコボコになったんだなぁって解釈した。

 で、その事件でSはやめた。だから一年ちょっとで、一足先に止めてった

 3つ目が自分がその時に研修やる意味ないじゃんて思った理由がT先生の質疑応答がへたくそすぎること。

 これっていうのが多分経験してる人多いんじゃないかと思うんだけど 
〇 の質問をした後に 〇 の回答が来るのが普通だけど、T先生に質問すると 〇 の質問に対して △ の返答がくるんだよね。

 で、これっていうのがよく頭をひねりながら考えないとなんか妙に納得しちゃうんだよね。

 で、自分はよく頭をひねりながら考えてたから、妙に納得しちゃった後に 〇 の質問は回答が返ってきてないんだけど・・・ って言うなんか絶妙に変化球でボールが来る感じのへたくそな先生だった。

 だからねぇ、自分が学びたいことの答えが返ってこないその状況で行っても意味ないんじゃないかなぁって思った。

 そんな時にS先生に出会った。

 この先生に出会ったのが結果的に言うと反面教師である。

 当時仲良く研修してたWもそのS先生のとこで研修してた。

 自分の柔道整復師の道に行くきっかけになった先生もS先生って言うからこの先生はWの先生だからSWって言う名前で進めるね。

 せっかくだったら SW の反面教師って言う意味を自分の頭をまとめる意味でもまとめていきましょう。

大きく5つに分けて反面教師を進めていこう

まぁ助けてくれた SW って言うのは自分の知らないことをたくさん教えてくれたことによる学びたい欲求を埋めてくれたことに救いがあった。その救いって何かって言うと結局、研修を止めずに済んだことが1番の救いかな。

それじゃ何を学べたかって言うと、よくわからない。今何の糧になってるかっていうのがわからない。

 これを別の表現で言うと小学校中学校で夏休みの宿題っていっぱいあったようなイメージがあるでしょう? じゃぁ今大人になった今その夏休みの宿題って何になってる自分の何の学びになってるのか?いっぱいやったけど結局やんなくても今がどう変わってたかって言うと変わってないような気がしかしない。そんな感じの時期が SW の出会いだったかな。

さっき言ったように SW の反面教師の意味を5つほど並べていこうかな。

1つ目は意味がわからないことでとにかく怒ってくること
今でも覚えている事は乙女座の話自分は9月2日生まれの乙女座。Wは8月25日生まれの乙女座。どっちも乙女座である
その時エスダブリューは患者の気持ちを考えれるようにしろと2人自分とダブリューに怒っていたのである
その時にエスダブリューは自分は乙女座だから女性の気持ちもわかるんだと大きい声で言ってた
待ってよダブリューも乙女座だし自分も乙女座である一体これは何に怒られているんだろうか
今になると言いたいこともある程度わかるけども少し言葉を選んで伝えることもできたんじゃないのかなあと勉強になった

ちなみに

Wの頭にげんこつして右手の第5中手骨骨折してたなー。 

2つ目は学びたい欲求は生まれたけど学びたいことをに対して学べてなかったなって言う
相手のことを考えて教えていない、自分の学んだことのアウトプットにしか使っていない。 

これは SW が自分で勉強したことを学生の自分たちにも教えてくるのである。つまり小学校で算数を勉強しているにも関わらず高校の数学を教えているような感じである。まぁ勉強できるところはよいしょよいしょあるのだろうけども、もし自分が逆の立場であれば相手の何を学びたいのかを聞いてから勉強を教えてもいいのかもしれない。

そもそも昔の教え方に近いのかもしれないけど、いつも勉強は土曜日の午後。自分は土曜日は午前中で終わるから午後から遊んでもいいフリーな時間である。そのフリーな時間を使って SW のところに行き勉強をしていたのだ。ただ SW のところに行ってセミナーのような、勉強会のような、講習会のようなことをするわけではなく、ほとんどの時間を SW が患者を治療している風景を観察する。昔の職人が見て覚えろみたいな時間がほとんどであった。これは意味ないよねー。スタッフも何人も雇ったこともあるけれど、結局3ヶ月以内には一流としてデビューできるような教育システムがないと意味がないよね。だから救ってくれた事は感謝しているけれども、もし自分のところに勉強を教えてくださいって言ってくれた人がいたならば、相手のために勉強できるプログラム作ってあげたいよね。

3つ目 経営のこともわからない? 治療技術もわけわからない?
実際に最後までって言うと自分が先生になって1年目位までは SW の所には行ってたと思う。後にも伝えてはいるけれども、院長として任さてもらえたのは、震災後すぐであった。震災後だから、患者さんも来ないし何していいのかもわからない時にもやっぱり SW の所には行っていた。ただ何を教えてくるわけでもなく今覚えている事は患者さんのカルテを出し、この人最近来てないなぁーって考えることをしろって言われた。そしたらその人来るようになるからって言われた。わけわかんないよね。昔は予約制でもなかったからなんか患者さんが次いつ来るかって言う予約もするわけでもないから。だから計画的に治療していたわけでもないから、患者さんが来てお会計してじゃあまたお待ちしてます。って言って、じゃあいつ来るのかなーって待ってる状態の体制。そもそも、そういう感じがおかしいよね。歯医者でもちゃんと次回はいつに来てください言って何回でどうします言うわけだから、整骨院の治療でも、そんな風に伝えるのも当たり前だよね。そのような状況でカルテを出してその人を考えろって言ってた。そしてそれを真面目に取り組んでた自分も偉いかもしれない。

ちなみに院長になって、1ヵ月くらいどうしていいかわからないで、患者さんも来ないし、夜カルテを出して想い出してもしょうがないと思いながらもちゃんとやってたし、でもスタッフもいるし、どうしていいかわかんないで毎日夜泣いてた記憶がある。そんな時に W が「だいじょぶかー」って電話してきてだめだーって自分が泣いて、W がすぐ東口整骨院に来て、なんかお前のために来たぞーって言ってたのも思い出。ただ1日も泣くことってないじゃん。がんばって泣いても1時間位だと思うんだよね。で、そんときにまぁこれも後で勉強したことなんだけど人っていうのはまぁ怒りが最初に来て、その次は悲しみが来て、その次は無になって、で、その次は何か行動し始める流れなんだよね。だからずっと悲しんでいる人っていないんだよね。泣いた後に何か無になって、ため息ついて寝るか食べるかして。で、次の日迎えたりするじゃん。だから W がきたーって言ってもその時にはもう泣き終わってんだよね。 別に泣いても仕方ないって頭でわかってはいるから、まぁ何していいかわかんないんだけど。だから W が来てもなんかもう遊んでたような気がする。

話が飛んじゃったけど経営も治療もちゃんとシステムを作って教えてあげたいよね。で、今、それをやりたいなと思って経営も治療も学べるようなホームページを今作ってるんだよね。それを夢現塾って言ってやってる。で、これも4つ目に出てくることにもなるんだけど、結局、自分の学びたいことしか学ばないのが人間なんだよね。自分の興味ないことを学ばない。そしてその学びたいことはどこのレベルで学びたいのかもわからないから、結局、自分はここまでの知識さえ知ってれば役に立つよって言う情報を載せるから、もし興味あれば自分のレベルに合わせて勉強してもらえればいいかなぁって思ってる。

4つ目 学びたくないって思った記憶が強い、土曜日の午後に行きたくない、少しでも時間を遅くしたいと思って、コンビニで時間つぶして、研修で遅れましたって言ってた思い出。  もし自分だったら、プログラムを組んであげて、いつまでに何ができるようになるまで練習して、あとは自分でやるようにしてあげてもいいのかな。あー今になってもな研修も辞めたいなぁって何回も思ったことあるし、仕事も行きたくないなぁって何回も思ったことをあったなぁー。結局ゴールのないマラソンしてる感覚が大きかったんだろうなぁ。自分で基準を作りながら、次こうしてみようって、基準ができたらそれで次の目標まで遊んでよーって言う基準も作っていいんだろうなぁ。常に前に前に進もうってやってたら前に進めない時くるから。身長大きくしよう大きくしようって言っても結局身長は止まっちゃうのと一緒で前に進もう前に進もう言っても前に進めなくなる時あるんだよね。だから、そしたら今度は規模を大きくしてさぁ、前に進むんじゃなくて横に広げようって言う考えも大事だよね。今思ってるけど。だから身長大きくしよう大きくしようで止まっちゃったらさぁ、自分はこうやって大きくしたよーってみんなで身長大きくしてれば規模が大きくなるじゃん。だから自分1人で成長するんじゃなくて今度はみんなで成長するように考えると良いよね。

 話がそれちゃったけどこの4つ目に関してはちゃんとゴールを作ってあげてね、教えてあげたいよね。どこまで学んでいけばどうなるのかって言う事ね。職人みんなそうだけどね勉強する、学ぶことに終わりはないんだよね。だから最低限ここまで勉強すればこうなるよって言うとこまで教えてね。後は1人で自分のやりたいことをに進むことが大事だよね。

だから自分がやりたいことのホームページで教えたいことのゴールとしては、自分でね治療院を出してね経営もやってね患者さんも来て患者さん治しながら自分の技術のレベルも上げていきながら、みんなが指導者として自分の技術をみんなに教えてあげれるレベルに持っていきたいよね。そんなホームページを目指していきましょう。

5つ目 根性論はやめてほしい。甘ったれているとか、そんなのは関係ない。
・・・・・
紀元前2800年ごろの、古代アッシリアの粘土板にある文。 

「世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不正の横行は、目にあまる」 

 それから2000年後のソクラテスの言葉。
「子供は、暴君と同じだ。部屋に年長者が入ってきても、起立もしない親にはふてくされ、客の前でもさわぎ、食事のマナーを知らず、足を組み、師にさからう」  

プラトンは、自分の弟子について。
「最近の若者は、なんだ。目上の者を尊敬せず、親に反抗。法律は無視。妄想にふけって、街であばれる。道徳心のかけらもない。このままだと、どうなる」 

アシモフの雑学コレクション 星新一編訳より
・・・・・
根性論はもう時代遅れになってきたよね。だからなんだろうなぁ。勉強しようとする姿勢が足りないみたいなことを言われてもわかんないよね。根性論に近いところで言うと相手の思いやりが大事だとか優しさが大事だとかそういう話はよくないよね。俺もみんな興味あれば読んで欲しいんだけど教える技術っていうのがあるんだよね。そこで根性論って言う話も出てるからそれが良くないで思いやりって言う言葉も優しさって言う言葉もいらないんだよね。だってそれって人によって価値観が変わっちゃうから。それを教えるって意味が違うんだよね。思いやりが大事っていうのが、例えば、お釣り返すときに両手を添えて渡すんだよって言う教え方があるよね。なのに今のお釣りの返し方って思いやりがないからだめだよねって。言われても意味がわかんないよね。だからちゃんと教える技術って言う事を学べたし。まぁこの本にもまだ出会えたことも良かったね。

でも感謝は、かわらないかな。 おかげで研修を続けられたからね。 でもたぶん、 研修をやめますって言っても、説得されて、研修場所は変わるけど、研修は変わらないのかもしれない。 そう考えると、反面教師のおかげで教え方を教わったと考えてもいいのかもしれないな。 

平成20年 2008年 18歳 19歳
平成21年 2009年 19歳 20歳
平成22年 2010年 20歳 21歳

平成23年 2011年 21歳 22歳

 3月11日に東日本大震災 3月12日に院長として就任 院長になり院を任せられるようになった。

 しかし震災後、患者さんは一人だけ、その時は、自分と、スタッフ Mさん、Yさん、Oさん、Hさん 受付時間は8時から夜の8時。

 それで患者さんは一人。

 何をしていいのかわからなかった。

 教える力もなければ、集客する力もなく、何をするといいのか、何をするべきなのかわからず、苦しんでいた。

 結果的にはスタッフは全員辞めた。

 自分の指導力のなさにも自分で驚いている。

 だからとにかく本を読むようにした。

 雇われだし、免許を持って1年目なのでお金はない。

 だから、月に3万円を上限に決めて、とにかく、アマゾンで中古本をかった。

 安くて251円。 高くても1000円。

 だから月に平均30冊くらいは読んでいた。 

平成24年 2012年 22歳 23歳
平成25年 2013年 23歳 24歳

平成26年 2014年 24歳 25歳

 この年の5月22日に入籍しました♪

 この年の冬かな?

 スキー場に応急処置するためにグランデコに行ってたんだよね。

 師匠と一緒に(慈源堂の創設者)車に乗ってた時に、「院はお前にやってもいいな」って言ってくれた。

 だから、開業は、東口整骨院を買い取った形。

 でも、ただ、買い取っても仕方ないから、一番の売り上げを上げて買い取った記憶がある。

 ただ、買い取るって一言言っても、 お金のことを勉強していない。

 運転資金もわからなければ、金融公庫の文字も知らない。・・・あれ来年開業しているのにね。

 覚えているのが、セミナーで勉強しかしていない状態で、毎週東京行き―、交通費にセミナー代。開業する前に、住民税が払えない状態なのは覚えている。

平成27年 2015年 25歳 26歳

この年の5月27日に第1子が生まれました♪

 2015年1月5日に開業。

 その時にスタッフ 自分 T先生 S先生 受付2人 6月に院長を抜けてスタッフだけで院が回るように行う。

 うまくいかずに9月に院長が現場抜ける仕組み化経営に受けにいく。

 今もあると思うんだけど、その時は3ヶ月無料でコンサルティングしますよ。

 3ヶ月で売りあがったでしょ? 経営塾もやっているんだよ。

 っていう流れなんだよね。

 でね。 3ヶ月で週2回 計6回のグループでコンサルをやるんだけど、 1回受けて、すぐに塾に入った。 500万で。(笑)

 どっからお金が出るんだよって話だよね。

 分割でね、対応してくれたし、なぜが、すぐに入った。

 その塾は、上のクラスの塾で、経営を教える先生になりませんか?

 そして、経営を教えるには、コーチングも大事だから、一緒に学んでね。500万。ってやつ。

 だから、コンサルティングの力と、コーチングのやり方はすげー勉強になった。

 だからね。 人には、学ぶ上でタイミングもあるだろうから、おすすめしても動かないのは知っているけど、コーチングだけは、勉強したほうがいいよ。

 すべての問題に答えは自分が持っているってね。 

平成28年 2016年 26歳 27歳

この年の末にスタッフ2人がやめる話になったんだよね。

 昔からスタッフはいてくれたから、スタッフがいない自分の院は意味がないって思っちゃったんだよね。

 そんな時に嫁のえりちゃんに助けを求めた思い出。

 「俺はだめだよ~」ってえりちゃんに泣きながら電話したな~。

 でね、そんなときに、じゃー私も働こうかって。

 上の子が志保ちゃん。

 1歳半くらいかな?

 こどもと一緒に働くようになった。

 で、なんとか、えりちゃんも同じ柔道整復師なんだけど、子育てを目標にしていたから、60坪の院で隣にトレーニングルームもある、7台ベッドがある治療院で一人で治療していても効率が悪いから、すぐに治療家を募集したね。

 N先生。

 活躍してくれた。

 あの時に、治療家やめようと思ったし、なぜか自分はダメと思った時だったなー。

 そのおかげで、また自分が最前線で治療を行うようになったの。

 売り上げもね。

 絶好調だったね。 

平成29年 2017年 27歳 28歳 

この時に技術セミナーを始めた。何月だったかなー。

 売り上げも絶好調。

 300万オーバーをやっていたかな。

 でね、24歳の時に、開業する前にコンサルティングを受けていたんだけど、治療院実践会ってやつね。

 その時に、アメリカのカイロプラクティックを参考にして、経営の仕組み、紹介の仕組みを組み立てたやつ。 その時に参考にしていた方法が、治療時間が、1人1分、 新規は10人位集めて、動画を見せて、どのくらい通えばいいのか? 何を治療すればいいのか? を教育。

 で、10分に10人ずつ予約を入れていく。

 そして、毎日通わせる。

 毎日っているのは、その院は週に3回だけしか、治療をしないんだって。

 だから、院をやっている日は毎回来院してもらう。

 12回で1セットだから、 13回目に体を検査して、どのくらいよくなっているのか?をチェック。

 そー。だから、週休4日にしたんだよね。

 この年かな。 週休4日。

 土曜日は県外から来る人もいたから、土曜日を入れた、一日置き。 火曜日、木曜日、土曜日、を受付にして、月、水、金、日曜日を休みにしたんだよ。

 でね、300万を達成させたんだ。

 ただ、違う場所でも話しているように、承認欲求の病気だと思うわ、何か自分が成長していないと、ダメな気がして、何か常にチャレンジしているような感じ。

 そして技術セミナーを始めた。

2人のスタッフが辞めるようになったから、改めて最前線で治療をするようになったんだよね。

 っでね、22 23歳の時かなあぁ当時トムソンテクニックで治療してたからいつも通り検査していたんだけど、踵骨、踵の骨を触ったときにおかしな脚長差に気づいたんだよね

 例えば踵を頭上に、頭側に押したら、脚長差は、押した側の踵が短くなるようなイメージするでしょう。

 でもその時、踵を上にやったらなぜか長くなったんだよね。

 脚長差絶対おかしいよなぁってことで脚長差をいろいろ検査したら骨盤以外にも脚長差で検査できることを知ったんだよね。

 そん時はセミナーとかで知ったわけじゃないから、超スゲェ発見したと思ってた。

 でも後で知るようになるんだけど、、これはいつだ? 25歳の時かなぁ。ちゃんとトムソンテクニックを勉強したいなーと思ってて塩川カイロプラクティックの勉強会に参加するようになったんだよね。

 ちなみにその塩川先生て言う人が日本にね、トムソンベッドを持ってきた人なんだよね。すごい人。

でね、そのトムソンテクニックを見たときに鳥肌立ったの覚えてるわ。

ほんとにすげえなぁって思った。

で、セミナーに参加している人たちの体を治すみたいなタイミングあるよねぇ。

そういう時に脚長差で検査してた時に驚いた。

俺が発見した脚長差の検査が、このトムソンテクニック、塩川先生が使っていることに驚いた。

そして技術セミナーの話になるんだけど、26歳の冬かなあぁ、背中が痛いって言う患者さんがきたんだよね。

背中が痛すぎて横になれないの。

脚長差で検査をするときのデメリットって、うつぶせ、仰向けになれない人を検査できないんだよね。

検査ができないって言う事は、どの治療を、どのくらい行うのが、患者さんの体にとって正解なのかが検査できないんだよね。

つまり机上の空論じゃないけど頭でイメージしたような治療しかできないんだよね。これは結構デメリットなんだ。

てね、その患者さんを治療しているときにね、どうにか検査できないかって言うことでOリングテストを使うようにしたんだよね。

 最初はえりちゃんに指で悪い部分をさしてもらってえりちゃんの指を使って検査をしていたんだけどやっぱり手間になってしまう。

時間がかかってしまうことがあるんだけど。

その時に自分1人で検査できる方法があるんじゃないかって自分で試行錯誤して今のOリングの方法を見つけたんだ。

 ちなみにそのOリングで学んだ事は全国で何人かの人には教えたんだよね。

でもそのちゃんとやる前に体調崩してしまってね。

それでね、Oリングテストで検査をするようになって技術セミナーで皆に教えようっていうところまできたんだよね。

技術セミナーをするにあたってはメールアドレスをいかにゲットできるかって言うこともやってたねー。

メーリングリストって言うんだけど当時はしびれ専門院って言うこともやってたからしびれに特化した技術セミナーって言うことでね。

しびれをなくす7つのステップみたいなことをFacebookであげてね。

 気になる人はここのメールアドレスからゲットしてくださいみたいなことをやってた。

 それでね、はじめての技術セミナーを実際に開くって言う時にね6人の人が来てくれたの嬉しかった。

で一生懸命、脚長差からね、教えてね、脚長差のことがOリングでできるって言うことも教えてね、やってたんだけどびっくりする位技術セミナーが嫌になったんだよね。

技術セミナーやりたくない感じにびっくりしてコーチングを受けるようにしたの。

 コーチングも高いのね、1回のコーチングに50,000円位かかるのね。

それでね、結果的にはその1回だけでもう技術セミナーをやめようって言うふうになったんだけど、改めて技術セミナーをしなかなった理由をまとめてみようかな。

技術セミナーが嫌になった理由を3つにまとめてみた

1つ目短期間に全て教え切れない

技術セミナーになってくると大切なのが再現性と習得の速さなんだよね、だからいかに練習しても習得できないとか後自分はできるけどできない人がいちゃうとかがあると技術セミナーとしては致命的なんだよね。簡単にわかって、誰でもできるっていうのがポイント。

ただ本当に教えきるにはステップを踏まないといけない。そのステップがあまりにも多すぎて伝え切れない状態になっちゃった。ただこれはまた動画でみんなに教えていきたいと思うから勝手にステップ作って載せていきたいと思う。

2つ目 再現性の低さ おかげさまで病院で治らない患者様を専門に扱う治療院と言うことでやらせていただいてはいる。そうすると、どんどんどんどん難しい患者さんが来てくださってくれる。そうするとそういう人たちに対しては検査がうまく機能しないことが多い。これは私のOリングテストだけではなく脚長差もまたAKの検査も同様に使えないことがある。AKも世界中で有名な治療方法の1つではあるけれども、じゃあ治すのはこれ1択で治していきましょうと世界中でなってはいない。つまりそのAKの検査では何か見落としがあって不完全なのだと推測する。Oリングテストも同様であり、私の検査も同様であると考える。そうすると一般的な患者さんであれば有効だが難病になるとそうもいかなくなってしまう。これが2つ目の技術セミナーをやらなくなった理由でもある。

3つ目不完全が故の不安。
どこかでも話しをしているけども承認欲求がすごい私である。その中でも否定的な意見はちゃんと受け取ってしまう私でもある。イメージしてうまくいかないときはとことん調べるのも私の癖ではある。そうすると不完全な故の技術セミナーに対して完全と言うものはないけれども否定的な意見に対して弱気になってしまう自分も存在している。今の世の中で完全な技術で治療している人なんて存在しないのもわかってはいるけれども否定的な意見に対してちゃんと受け取ってしまってる自分も存在しているのもわかる。一流のスポーツ選手になればなるほど批判的な意見は集まってくる。ただそれも含めた上で一流選手になる。つまり不完全ながら技術セミナーで教えていきながら一流になると考えるのだけれどもうまく行動できない。私はこれをタイミング、時間的な問題と考える、最初に2つほどやらない意見を出した上でそれを解決させるために今もなお勉強していると。そしてそのタイミングが来たときにまたみんなに教えていきたいと思う。

この年の12月から、体調を崩すようになった。 理由はわかるようでわからない。 現在進行形だからね。 寝込むようになったのも、ここからだね。 それまではすごく順調♪

平成30年 2018年 28歳 29歳

 11月6日に第2子が生まれました♪

平成31年 / 令和元年 2019年 29歳 30歳  

令和2年 2020年 30歳 31歳 2月19日に川が氾濫した。台風で。令和元年東日本台風っていうみたい。 自分のところは、実質な被害はないけども、あちこち川になってた。 患者さんに影響が出るし、家賃も高いから、移転する。 原状回復費用250万 高いなー。 お金ないから移動したのに、高いなー。 でもね、オーナーさんにはお世話になりましたよ。 ただ、5年ほどいて、2500万近く、家賃を払っていたと今思うと、自分はやればできる子なのかな? 今は絶望的にお金がないけど。 移転してさ、すぐにコロナウイルスだって。 患者さん来ないし、来るように努力もしていない自分がいるんだよね。 相変わらずお金は絶望的にない。 

令和3年 2021年 31歳 32歳 3月にやっと、原状回復の250万を払い終わりましたよー。 はー、大変。 今ここ。