
東洋医学の体系化が進められたのは、紀元前2~3世紀の頃。
大きく三大古典
・「黄帝内径」(こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい)
・「神農本草経」(しんのうほんぞうきょう、しんのうほんぞうけい)
・「傷寒雑病論」(しょうかんざつびょうろん)
・日本における東洋医学の歴史は次の五節に分けることができます。参照:東洋医学の歴史と現代
①初期 (6~15世 紀) は中国医学の導入から独歩への最初の努力の時期であり、代表的著作としては丹波康頼 (912-995) の 『医心方』(日本に現存する最古の医学書である)がある。

②後世派(16~17世紀)は、中国の金・元時代の医学の影響が強く認められる時期であり、田代三喜 (1465-1544?), 曲直瀬道三 (1507-1594)、曲直瀬玄朔 (1549-1631)らに代表される。



③古方派 (17~19世紀) は中国医学の日本化が強力に推し進められた時期であり、 山脇東洋 (1705-1762) ,、吉益東洞 (1702-1773)ら により実証主義的色彩が強く打ち出され、一方では人体解剖が行われ、いま一方では『傷寒論』の再評価が進められた。


④西洋医学の導入は16世紀後半に始められたが、漢方と対立する勢力になったのは18世紀 以降のことであり、杉田玄白らの『解体新書』は1774年に刊行された。また西洋医学の本格的労作である宇田川玄随の『西説内科選要』は1793年に刊行されている。
ここで、幕末から明治を迎えるようになるが、政府は、明治16年(1883年)に医術開業試験基礎空を布告して、西洋医学の習得、国家資格に合格、そして医師に慣れないことになっています。
医師になったのちは、漢方を扱うことも可能だが、せっかく、エリート医師になったのに、時代遅れとなっている、「漢方医」になりたがる人は少なかった。
⑤東洋医学の復興は、明治初期に認められる。
天才的な薬理学者、東京大学助教授、猪子吉人が大小40篇の、漢方に対する論文を発表。論文のすべては、「東京大学医学部薬理学教室論文集」に収められている。
もう一人、長井長義(1845-1929)。麻黄(まおう=漢方)の一成分エフェドリンを発見。これは、漢方の近代的研究に努めた最初の人である。
こうして、明治末期のほとんど絶滅していた漢方が、昭和初期に復興していった。 本当の意味での漢方の再評価、復興は、第二次世界大戦後の昭和20年代以降である。
昭和15年(1940)に医師で最初の文化勲章ぞ受賞された佐々木隆興(1878-1966)は昭和28年(1953)に日本内科学会創立50周年記念講演として「現代医学と東洋医学」と題して、講演を行っている。

「東洋医学では精神と肉体の関係、環境の精神・肉体に及ぼす影響が昔より注目され論説されております。」
「病気はすべて全身のそれであって、部分の病気は存在しない。」

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私は21才で専門学校を卒業して、すぐに院長になりました。
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