投稿日:2024年8月20日 更新日:2024年8月26日
開成山大神宮(かいせいざんだいじんぐう)
福島県郡山市にある「東北のお伊勢さん」と言われる開成山大神宮について調べてみました。
開成山大神宮
御祭神:・天照大御神・豊受大神・神武天皇
創建:明治9年
別名:東北のお伊勢さん
開成山大神宮の歴史
安積開拓の開拓民の精神的なよりどころにするために作られました。
↳安積開拓とは?
明治初期、戊辰戦争に敗れ、賊軍(反逆者)の汚名を被った東北地方は、白河以北、一山百文(しらかわいほく、ひとやまひゃくもん)(白河から北の地域、つまり東北地方は一山百文、程度しか値打ちがないという意味。百文=3000円)と言われていました。
そのため、明治政府は東北地方の開発を直接国費で行うのは、明治10年ごろであり、その第一号に安積の大地が選ばれました。 これが「安積開拓」。この事業により、郡山の発展が築き上げられました。
「一尺を開けば一尺の仕合わせあり、一寸を墾すれば一寸の幸あり」
開成沼、現在の開成山野球場と陸上競技場。
「仕合せ」はめぐり合わせ、幸運、物事がうまくいくという意味であり、郡山は、かつて、土地がやせていて、食料にも事欠く地域だったそう。 これが、明治政府の最初の国営事業として、猪苗代湖から水路をひく安積疎水事業で改善をはかったが難工事だったようです。 つまり、一尺の水路を開けばその分一尺の成果があり、一寸開拓すれば、一寸分の人々の生活がらくになるという意味です。 安積疎水は工事期間3年、のべ85万人、国家予算の3分1を費やした、世紀の大工事。 疏水は大地を潤し、米の収穫10倍以上に増加し、全国の市町村の中で1位になった。
開拓者の群像
左から、中條政恒・大久保利通・ファン・ドールン。 右の家族は、、、豊かな市民かな?
中條政恒
明治5年に典事という仕事(課長立場)に任命され、明治政府から、士族授産(職を失った人の救済、仕事を増やし、産業を盛んにすること)のために、作物や草木が育たない土地であった、「郡山」の開成山の一帯開拓を計画しました。 その時に郡山の商人にも開拓の協力をお願いして、「開成社」を作ってもらうことに。 その時に、中條は、大久保利通と話、政府が積極的に手助けしてもらうことや、猪苗代湖の水を郡山地域に引くことをお願。 このお願いもあり、政府も行い、郡山の発展の基礎となったため、「安積開拓の父」と呼ばれています。 安積開拓の疏水の完成する前に鳥取県に転勤。 亡くなる3年前に、安積開拓地の人に願われて、家族で、郡山市に移住。 1900年に亡くなる。
大久保利通
内閣制度発足前の実質的、内閣総理大臣。 明治11年に大久保は安積開拓の事業案を提案し、政府が予算案を計上した。 安積開拓の主導的な役割を果たした大久保を称えて、1889年、明治22年に、大久保神社を建立(安積公民館牛庭分館敷地内)。
福島県と地元商人が結成した「開成社」が進めていた開拓事業に感激。 事業案を政府に提出して、政府もこれを了承、予算計上した。 皮肉にも大久保は、その2か月後に暗殺。 自らの夢には立ち会えなかったが、全国から刀を捨てて原野開拓のために2000人が集まった。 工事にオランダ技師、ファンドールンにも手伝ってもらい、安積原野に水を流しても、会津の水は減らないことが実証された。 安積疎水は工事期間3年、のべ85万人、国家予算の3分1を費やした、世紀の大工事。 疏水は大地を潤し、米の収穫10倍以上に増加し、全国の市町村の中で1位になった。
ファン・ドールン
8年間にわたって、日本で、河川の西部計画を立てた、オランダ人技師。 河川の水位観測を日本で初めて科学的に行った人。 江戸時代から、猪苗代湖からの水を持ってくる計画はあったが、会津の水が無くなってしまうのではないかと計画は進まず。 そんな時に、ドールンが1872年に来日。 調査結果では、郡山に水を持ってきても水位は変わらないことが判明。 ドールンの指導で、安積疎水の工事が可能であることを認めたことで、国による工事が着工。 実際の役割は、設計図の助言、監修であり、郡山の滞在期間は4日だった。 安積疎水の全体設計は、南一郎平。
なお工事完了の2年前に契約を終えて帰国。 生涯結婚せず、自宅で逝去。 一般墓地に入っていたが、撤去されてしまう。 1978年に郡山市の一般の方によって伝えられ、郡山市長を中心に「墓碑再建委員会」が発足し、寄付により、墓碑が再建。(会津若松市湊町の十六橋水門近く)
天照大御神
日本の太陽神。 天を照らす太陽を象徴としており、あらゆる願いを聞き届けると言われている。
豊受大神(とようけのおおかみ)
五穀をつかさどる女神。 天照のお食事を司り、衣食住、産業の守り神。 伊勢神宮の内宮には天照大神、外宮には、豊受大神がいる構造になっています。 そのため、外宮は、豊受大神宮という名前があり、正式名所です。日本書紀には、少ししか出てこない、豊受大神。 日本の天照大神に並んで祀られているのか、、 それは、豊受大神は、天照大神のお気に入りとされています。 天照大神が一人で食事が寂しい、、、そんな時に豊受大神がいるというわけです。○
神武天皇
初代天皇。 天照大御神の5世孫であり、古事記と日本書紀に記述されている。 互いに争うことなく、永遠に困窮しない国を実現するために、奈良盆地を征服して、日本国を建国したと言われる人物。道中に争いや、兄弟の不幸など、想像を絶する困難に合いながら第一代天皇として即位。 1890年に、「神武天皇を御正徳を後世に残したい」という声に対して、明治天皇が、「橿原神宮」(かしはら)(奈良県橿原市)にご鎮座されました。
阿部茂兵衛 像
安積開拓を行う会社「開成社」の社長。福島県典事 中條政恒の勧めで、お金のある商人たち25人集まって会社を作る。 郡山の町から開拓までの道(さくら通り)、開成山大神宮なども携わった。 このおかげで、国営事業安積野原野開拓と安積疎水事業へとつながる。 他にも学校の整備や、鉄道など、財産のほとんどをつぎ込んで郡山の発展に尽くしたと言われている。開成山大神宮前に銅像があります。
昔の郡山
江戸時代までは、荒れ果てた広々とした原野(荒地)だった。 年間雨量1200mmも満たない推理の悪い地帯だった。 古くから江戸時代から猪苗代湖の水を利用する計画はあった。 ○